O氏との出会いそれが全てのはじまりでした。彼は僕のすべてを否定し、僕が全部悪いと言わんばかりで指導してくださいました。こちらからのメールでの質問には答えず、来苑当日になって準備がなってないと責めるのです。おかげさまで周りの人は信じられなくなり、何をやってもどんな人にも責められる。こんなつらい思いをしたことはありませんでした。
引っ越しと内覧会。そして披露宴
色々とありましたけど、2013年の7月には無事開苑することになりました。開苑前の工事段階でO氏とともに建物を見に行きましたが、「なんでこんなつくりになったの?作業療法士が居るのにもったいない」と細々と指摘をされました。当時、僕は通所と新人教育で忙しかったし、そもそも建物を作る会議には一度も呼ばれたことはありません。僕の意見は聞き入れてもらえない状況でした。そんなことを知らないO氏は僕を責めるのです。
建物が出来あがって引っ越しを済ませ、開苑するまでの間、実際に建物を使っての入浴動作練習がありましたが、これも結局グダグダで終わってしまい、僕はO氏との連絡役を下ろされました。また、これとは別に各ユニットに配属された看護師、介護士で練習をされていましたが、車いすからシャワーチェアへ移乗する際脱衣所が狭すぎてうまくいかないと相談を受けたので、「こうしたら広く使えますよ」とアドバイスすると、看護師は相当ショックを受けたようで「どうして今まで教えてくれなかたんですか!」とまた責められました。実のところこの時はまだ通所と掛け持ちでずっと特養の新人教育にはついていることはできなかったのです。それでサラッと解決策を僕がやってしまったものですから腹が立ったのでしょう。彼女はいつもイライラしてて、そんな人でした。
内覧会と披露宴はもともと好きだった写真の腕を買われて写真係をしました。実はパンフレットを作る時も僕が撮った写真で作ったんですよ。ちょっとした自慢です。内覧会と披露宴は一応スーツを着て写真係の腕章をして終始写真を撮っていました。披露宴の時はお弁当も用意されていたのですが、食べる時間はありませんでした。そこまで尽くしていたんですけどね…。
開苑、そして発症
開苑してからもO氏の講義は続いていました。僕は作業療法士ということで機能訓練指導員として機能訓練計画書を作らなけらばならなかったのですが、色々な書籍を見ながらたくさん作ってみてO氏に見てもらっていたんですが「本のままじゃないか、こんなんで入居者さんみれるのか?やりなおせ」で具体的な改善点はなく自分で考えろっていうスタンスでした。これは僕にだけではなく他の介護士に対しても同じで、「特浴でストレッチャーからトロリーに移乗するときに安全にできる方法を教えてください」とお願いしたら「知ってるけど教えないよ。自分たちで考えないと何にも解決できないよ」みたいな反応だったらしいです。高いお金を払っておいて具体的なことは一切教えず、師匠のM氏の講義内容をただ教えるだけであとは自分で考えろで済むんですから介護アドバイザーってぼろ儲けだなぁとおもってしまいました。こちらから質問すると「なんで?」って返され最後には「自分で考えろ」ですから何も解決されません。次第に質問するのが嫌になりました。そんな時一人の入居者さんの入浴介助の方法をみんなで考えようとなりましたが、その日は僕は休みでした。師長からO氏に連絡が入ったんでしょう「おまえがちゃんとしてないから、みんなこまってるだろ」っていつもは返信もしてこないのに突然メールが飛んできました。休日出勤の強制でした。ひどいと思いました。
話は変わりますが、開苑してからも通所には応援にいっていて特養につきっきりというわけではありませんでした。勤務時間も変わらず日勤だけですから夜勤や早出のある看護師や介護士からは疎まれて当然です。そんな中、師長からの命令で3階を開設することになったからユニットに入れということになりました。早出、日勤、遅出、夜勤勤務の始まりです。さらに当直と通所の応援までありました。夜勤は月に6回以上ありましたし週1で通所も行きました。これで入居者さんにリハビリができるはずがありません。僕は作業療法士でありながら介護士として働きました。そんな中リハビリが出来ていないことに対して理事長に怒られ、本部長からは「リハビリして良くなってもらったら収入が減るから困る」といわれ、師長からは「あなたには期待していない」といわれました。足元がガタガタと崩れるような思いでした。入居者さんの前で泣きました。職場への行きと帰りはずっと泣いていました。死にたいとも思いました。通勤路に踏切があるのでそのまま飛び込むのもありだよなぁって思ってました。頭の中は真っ白でした。何を聞かれてもわかりません。自分が何言ってるかも忘れません。もう駄目だと思って理事長に休暇を願い出ました。一度は受理されましたが本部長が「休んだら社会復帰できなくなると」休暇を取り下げてきました。もう、死ぬしかないとおもいましたが、「一度通所にもどって休みなさい」ということに落ち着きました。
実のところ、ここまでくる間に何度か心療内科にかかり、抗うつ剤と抗精神病薬を飲んでいました。薬を飲んでいることや、心療内科の先生からも休暇の願いを書いていただきましたが受け入れてもらえませんでした。今思えばひどい会社ですね。