僕のうつ病体験記~その5

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居心地のよかった事務所での勤務ですが、平成28年5月には追い出され、またユニット配属になりました。ただ依然と違い日勤帯でのみの勤務条件に変わりはありませんでした。

新人理学療法士の面接

2年間の事務所勤務で療法士養成校への求人票送付や電話での求人勧誘などをしていました。その成果か特養での応募はなかったのですが、通所リハビリの方で6名応募がありました。彼らは全員理学療法士で、通所リハビリにおられるベテランの理学療法士の方に教わりたいという気持ちが強かったようです。1人はすでに内定が決まっていて、残り5人の面接に同席し1人くらいは特養の方に来てもらえないかとお願いし特養の見学もしてもらいました。でも正直1人も興味がなさそうでした。後のことは上に任せて僕はこの件からは引くことにしました。

内定に関しては上の方、医師4人で話し合いながら決めたようです。5人の内1人を特養の方に雇うことにしたと教えてもらいました。条件について本人と色々あったようで、当面は通所リハビリの方で面倒をみるということで落ち着いていたようです。

新人理学療法士の就職

結局のところ通所リハビリに1人。特養の方に1人就職が決まりました。2人とも通所も特養も分かるように育てていこうということでした。しかし理事長だけは意見が違っていて特養の1人は最初から特養と思われていたようで、それを本部長が引き留めるということが数か月続いていました。本部長からは僕に「もし彼が辞めるっていったらどうする?」と言われたので「責任取って辞めます」といいました。

4月から7月までずっとそれで揉めていました。6月終わりに本人が入居者さんの対応でやらかしたことが原因で理事長に火が付き結局7月終わりから特養のみの勤務になることになりました。彼も食いついて言いたいことをいったみたいですが聞き入れられることはなかったようです。結局のところ僕の育て方が悪かったんです。

彼が特養勤務になって僕の下で動くのかと思っていたのですが、ユニットに預けて介護士の仕事をまず覚えてもらう、それからリハビリにうつすということになりました。今になって思うとこれにはどうも看護・介護師長の意見が入っていたように思います。当然、彼が納得するわけもなく「辞めたいと」言ってきました。全部僕の責任です。

この環境の激変により僕のうつ病が再発しました。また頭が真っ白です。彼をかばってあげることもできませんでした。さらに介護士が何人か辞めてしまい僕自身もユニットを手伝うようになって仕事量が激増しました。

僕が退職することになった理由

9月の半ばに本部長に呼ばれました。本部長より「師長からユニットの手伝いをしないのは彼じゃなくでお前の方だって聞いてる。どうなんだ?」と言われました。僕が懸命にやっていたことは全て無駄だったんだと分かった瞬間でした。

10月1日に秋祭りがありました。事前に看護・介護師長から僕を出勤にさせたいと理事長に話していたらしいですが断られていたそうです。そうとは知らず、僕が自分から「当日大変だから出勤させてほしい。」と理事長に願い出たところ、あっさりと許可してもらえました。秋祭り自体は大変だったけど楽しくできることが出来ました。問題はそのあとに起きました。看護・介護師長から理事長にに「なんで秋祭りの日に療法士が2人ともいるのか、私がお願いした時にはダメって言われたのに。」みたいなあったようでそのことでしばらく揉めていました。10月6日には秋祭りの片付けが終わっていないと責められこともありました。新人の彼も12月に辞めるって言ってきました。

もう、なにもかもが信じられなくなりました。まわりがみんな敵に見えました。人が怖くてたまりません。毎日の徒歩通勤はずっと泣いていました。休み時間は屋上に行って泣いていました。そのうち休み時間まで待てなくて勝手に屋上に上がって泣いていました。屋上にいくと死にたくなりました。「このまま飛び降りようかな。」と思いましたが、家族のことが頭に浮かんできて実行はできませんでした。もう限界でした。

退職願を出して。

すっごい引き留められました。理事長には17年もお世話になったので申し訳ない気持ちでしたが、「このままでは死んでしまう。」と話すと「ここで死んでもらったら困る。」と退職願を受け取ってもらえました。でも受理されたかどうかはわからなかったのでしばらく悶々としていました。

ある日、定例会議のレジメを作っている時に退職者のところに自分の名前があって、「やっと解放してもらえた。」と少し安心しました。その後退職日まで有休消化をすることなく、日々の業務と並行して引き継ぎ業務をしていきました。有休くれとかいったらもっと揉めてたでしょうし、辞めることが決まったことが僕にとっては最高のプレゼントでした。

退職前に理事長主催で慰労会を開いて下さいました。本部長、看護・介護師長、事務長と新人の彼は当然のように欠席でした。やっぱりなと思いました。通所時代の方々がいらしていたのは嬉しかったです。

最後に

その後のことは個人事業主になろうと思ったことのところに書きましたので、これで最後にします。

僕は元々コミュニケーションが苦手で上手く人と話すということにストレスを感じてしまう傾向にありました。それでも通所時代の利用者さんや特養時代の利用者さんには「あんたは、やさしいね。話しやすいよ。」みたいなことをいわれたことがあります。経営や教育方法などに振り回されることなく、ずっと利用者さんと向き合うことが出来ていれば今でも続けられていたかもしれません。

ですが、僕は就職してからずっと1人職場で先輩から指導を受けたことがありません。40を過ぎて17年も経験があってもレベルがとても低いのです。さらに今までの経験とうつ病から、もう作業療法士はやりたくないと思ってしまいました。

退職して1年以上たちますが、うつ病の症状に変わりはなく人が怖くて面接が受けられません。webデザイナーとして起業をしたものの営業が出来なくて仕事はなく収入もありません。引きこもりのダメ人間になってしまいました。あのとき死んでおけば保険金で一千万円出てたのになぁと思うこともあります。でも僕はまだ生きてます。これからどうなるかはわかりません。なるようにしかならないとは思います。生きていくためにはどうしてもお金が必要になるのでどうにかしてお金を稼ぐ方法を考えなければなりません。

以上で、僕のうつ病体験記を終わります。こんな人もいるだよということを残せればと思い書きました。いずれ笑い飛ばせる日が来るといいなぁ。

この記事を書いた人

みかげうら

こーだー(仮)してるよ。
元作業療法士、臨床経験17年。

うつ / HSP / 精神障害者福祉手帳3級。